「無謀なツバメ」と「凄み」の話

「凄み」とは、ジョジョの奇妙な冒険第6部「ストーンオーシャン」の主人公である空条徐倫が、6部中盤のプッチ神父との戦いで見せた特殊技能である。それはプッチ神父によって視界を遮られた徐倫が、プッチの攻撃してくる方向を探知する力として発揮されている。

プッチが語った「凄み」

この「凄み」と表現されている何かは、この言葉が「気迫」を連想させることもあって、一見理屈のないものに思える。しかし実際はそうではなく、論理的に説明可能なものである。そしてそれを説明するにはまず、この言葉の数ページ前にプッチが語った「崖に激突して死ぬツバメ」の寓話の意味から語る必要がある。

空条徐倫は知ってのとおり、ジョジョ1部の主人公ジョナサン・ジョースターから始まる「ジョースターの血」を引く者である。このジョースターの血統は、歴史の裏側で幾度も世界の危機に立ち向かい、強大な敵を「実力」と「強運」で打ち破ってきた。

後者の「強運」とは言い換えれば「運頼みの無謀さ」である。しかしジョースターは運命の神に愛されているかのように勝利を繰り返す。これによって彼らの魂は、「強運が発揮されること」を前提とした無謀さに最適化され、その魂は子にも受け継がれる。そしてそれでもジョースターはまた勝利して、さらに無謀さを深める。こうしてジョースターの「無謀と強運の血」は、世代を重ねるごとに強まっていく。

ただしジョースターの強運は無条件に発揮されるわけではなく、実力によってある程度以上の勝利の道筋を付けて初めて発揮される。「神は自ら助くる者を助く」ということわざがあるが、ジョースターの強運もまた、勝利のための然るべき行いを示した時に授けられるのである(それは少年向けバトル漫画の主人公が、完全に運任せで勝つことがほとんど無いのとも似ている)。

そしてこの「無謀と強運の血」には弊害もある。それはジョースターの者が全盛期を過ぎて、かつての実力を出せなくなった後に無謀な行動を取ると、強運が発揮されずに命の危険に陥ることである。そして無謀が常態化してしまっている彼はその危険性を自覚できず、いつか短命で死に至る。

以上の事柄を、プッチ神父が比喩的かつネガティブに表現したのが、「崖に激突して死ぬツバメ」の寓話の意味である。親ツバメから宙返りの角度の危険の限界を教わっていない子ツバメは、その無謀さゆえに危険に踏み込んで他のツバメより多くの餌を取れるが、一方でその無謀さゆえに事故に遭いやすく、他のツバメより短命なのである。

無謀なツバメの話

空条徐倫は、空条承太郎という絶対的な実力と強運を兼ね備えた者の娘であり、さらに歴代のジョジョの中で最も長く血統を引き継いでいる。その数はジョナサンから数えて6代目になる(ちなみにジョセフの息子である4部の東方仗助は4代目、ジョナサンの肉体の息子である5部のジョルノ・ジョバァーナは2代目となる)。「血統の積み重ね」という視点からは、空条徐倫はジョジョの極致にいるのである。

しかし一方で、徐倫は実力面ではまだまだ未熟である。これは徐倫がほんの数か月前まで、スタンド能力を持たない一般人として生きてきたことを考えれば当然である。つまり徐倫はジョジョ歴代で最強の「無謀と強運の血」を持っているが、それに釣り合うだけの実力は持っていない。

徐倫はスタンド能力「ストーン・フリー」に目覚めてから数ヶ月、プッチ神父が送り込む刺客に全て勝利してきた。しかしそれはプッチ神父から見れば、無謀なツバメが他のツバメに取れない餌を取るかのごとく、たまたま勝利を拾い続けてきたに過ぎない。そしてスタンド使いとして四半世紀近い経験を積んできた自分になら、無謀な徐倫を手玉に取ることはたやすく、無謀なツバメを崖に激突させるかのように始末できる。プッチ神父はそう考え、徐倫を侮っていた。

しかし徐倫が糸のスタンドを変形させた手錠で自分とプッチを繋ぎ、プッチのスタンド「ホワイトスネイク」の能力、「魂を目に見える形にできる」能力が徐倫に発動されたことで、想定外の事態が起こる。

その事態とは、ホワイトスネイクとストーン・フリーの能力が化学反応を起こし、徐倫の魂の内に秘められていた「無謀と強運の血」が、それに釣り合う実力の助けなく表に出たことである。その結果、額からずり出たDISCで目隠しをされた徐倫は、プッチの攻撃に対して直感に身を任せて拳を繰り出し、その拳はプッチの肉体の芯に命中した。

「凄み」でプッチに拳を命中させる徐倫

こうして思いがけず露わになった、徐倫に宿る「ジョースター家6代分の強運の力」、その「恐るべき性質」をプッチが評した言葉こそが「凄み」なのである。

ところでジョジョ作中で「凄み」という言葉は、この場面以外にも2回使われている。1回はジョジョ3部でジョースター一行がDIOのスタンド「ザ・ワールド」の能力を断片的に体感した時の花京院のセリフ。もう1回はジョジョ5部でブチャラティが15歳の少年ジョルノから「自分を始末しようとする覚悟」を感じ取った時である。これらもまた、DIOやジョルノに隠された「恐るべき性質」を表現したものであり、徐倫の凄みと用法は同じである。

ザ・ワールドの「凄味」を語る花京院
ジョルノの「スゴ味」を語るブチャラティ