「複雑な世界」は単純には矛盾する
我々が生きるこの「物質世界」と、人が作り出す「物語の世界」の大きな違い、その1つは「創造と稼働の厳密さ」である。物質世界は物理法則なるものに従って「厳密に」創造され、動いている。一方で物語の世界はそれに比べれば遥かに「いい加減に」創造され、動いている。この結果、物語の世界にはつじつまの合わない「矛盾」が大量に生じることになる。
科学全盛の現代に生きる我々は、物質世界が絶対の物理法則に従っていると知っている。このため我々は「自分の常識を超えた物理現象」を目にした時でも、それを「自分が知らない物理法則」によるものだと自然に考える。それはある種の「信仰」ともいえるものである。
しかし「科学」というものを知らなかった大昔の人々は別の考えを持っていた。「水は高きから低きに流れる」「太陽は同じ周期で巡る」程度のことは彼らでも簡単に理解できた。その一方で世界には、どう見ても不規則に動いており、どのような理屈を当てはめても予想どおりに動いてくれない、「不合理な物事」も多すぎた。
最初は彼らもそれらを解き明かそうとしたかもしれないが、最終的には匙を投げた。そしてそれら「不合理な物事」は、物に宿る精霊が気まぐれに起こすこと、あるいは世界を創造した神が上手く作れなかった部分であり、ゆえに不規則でデタラメであると片付けられた。
しかしそんな結論を良しとしない者たちも少なからずいた。彼らは世界を作り出した神、あるいは世界そのものを正しく美しく厳密な存在であると信じ、そのような世界に矛盾やデタラメなどあるはずがないと考えた。そして彼らは世界を解き明かすため、時に常識外れの仮説を考え、時に仮説に仮説を重ね、世界の一見不合理な物事を正しく説明できる理論と法則を探し始める。
世界を解き明かさんとする科学者の試みは、例えば夜空に貼り付けられた星の中で惑うような動きをする金星や水星の動きを説明する「天文学」などとして結実していく。反面、その時代時代の観測技術の限界などでどうしても真実にたどり着けないこともあり、そんな時の彼らは燃素フロギストンや光の媒質エーテルといった苦し紛れな存在を仮定したりもした。それでも科学者たちは少しずつ知識・知恵・知見を得ながら、その集積によって徐々に世界の「真実」に近づいていく。そしてその成果によって、我々が生きる今の世界があるわけである。
始めに語ったとおり、人が作る物語の世界は確かに、物質世界との比較がおこがましいくらい曖昧でいい加減で矛盾に満ちている。しかしだからといって、単純な視点から矛盾に見えることの全てを作者の誤りと断定するのは早計である。そこにはもしかしたら作者が考えだした、複雑で美学に満ちた理論や法則が隠されており、それに忠実に従っているがゆえに一見矛盾して見えるだけかもしれない。
そしてそれら理論や法則を知るための第一歩は、かつての科学的な者とそうでない者の違いと同じく、「その世界を敬意を持って信じる」ことができるかどうかなのである。