運命に拾われなかった脇役ストレイツォ
ストレイツォは、ジョジョの奇妙な冒険第1部「ファントムブラッド」から第2部「戦闘潮流」にかけて登場する波紋使いの男である。
彼はチベットの奥地にある波紋法の修行場、その長トンペティの弟子の一人である。そして彼はジョジョ1部の終盤、主人公のジョナサン・ジョースターが吸血鬼ディオの居城に乗り込む直前に、トンペティ及びもう一人の弟子ダイアーとともに、援軍として馳せ参じる。
端正な顔立ちと黒い長髪が人目を引く彼は、どことなくミステリアスで大物の雰囲気を漂わせている。しかしジョジョ1部での彼は特に活躍はせず、ジョナサンとディオの戦いの傍らで、ディオの配下の雑魚ゾンビ相手に割とどうでもいい見せ場があっただけである。
これは同僚の波紋使い、いかつい顔立ちと逆立った髪のダイアーが、直情的にディオに挑んで儚く散りながらも、ディオの片目を潰してジョナサンをアシストしたのとは対照的である。
そしてこのようにストレイツォが作中で活躍しなかったのには理由がある。その理由とは、彼が「極端な現実主義者」であり、それゆえに「ジョジョの登場人物に適さない」からである。
ジョジョの世界には、運命を操り世界を物語のように導くものが存在している。そしてこの「運命を操るもの」は、「勇気」「気合い」「自己犠牲」などの心を持つ人間を選び出し、彼らを物語の中に「配役」していく。
しかしストレイツォという人間は、自明な「論理」と計算可能な「確率」のみを信じ、「勇気」や「気合い」といった心の力も、人を導く「運命」の存在も信じていない。
ジョナサンは戦いに際してよく「死中に活を求める」戦法をとるが、それはストレイツォには「命知らずな賭けがたまたま成功しているだけ」としか映らない。ストレイツォが戦いにおいて最も重視するのは「確実性」である。危なげない行動の範囲で出せる力こそがストレイツォの「全力」であり、仮にハイリスクハイリターンな戦法で全力以上の力が出せるとしても、彼がそうすることは決してない。
例えばストレイツォは、ジョナサンがディオとの戦いで絶体絶命のピンチに陥ったとき、ゾンビの群れに阻まれ「これでは彼を助けに行けない」と言っていた。だがもしジョナサンとストレイツォの立場が逆であれば、ジョナサンは気合いでゾンビの群れに突っ込み活路を切り拓こうとしただろう。しかしストレイツォにはそのような蛮勇の選択肢は無いのである。
また一方でストレイツォには、ディオが戦いの際に見せる悪の帝王のごとき振る舞いも、「不必要で危険な隙」としか映らない。ストレイツォにとって敵との戦いは、隙を見せず全力で確実に勝ちにいくものであり、ディオのような余裕ぶった態度は敵に反撃の機会を与える愚行にしか見えないのである。
ちなみに彼の口癖である「ストレイツォ容赦せん!」というセリフは、彼がディオのようなもったいぶった行動を取らず、全力で事務的に戦う性格であることをよく表している。
「ジョジョの奇妙な冒険」と題された物語で、ストレイツォは「いかなる危険も冒さない」。それゆえに彼は劇的に活躍することも、「運命を操るもの」から重要な役を与えられることもない。ストレイツォはジョジョの物語の舞台に立ってはいるが、物語の蚊帳の外にいる。
こうしてストレイツォはジョジョ1部の物語を、波紋を使えないスピードワゴンや無力な子供にすぎないポコとその姉未満の、顔がいいだけの端役として終えることになる。
そして50年後のジョジョ2部の時代、75歳になったストレイツォは、波紋法の効果でそれなりに若々しくはあったが、それでも明白に老いていた。そんな折に彼は、スピードワゴンに連れられて赴いたメキシコの遺跡で、石の柱と同化して眠る「柱の男」に出会い、そしてその周囲に祀られた人間を吸血鬼に変える道具「石仮面」に再会する。
50年前、ストレイツォは実は密かに吸血鬼の力に憧れていた。しかしまだ若かった彼には、太陽光を浴びると消滅してしまい、また人間を殺して精気を奪わねばならない吸血鬼の力はデメリットのほうが大きかった。しかし肉体の老いが進み、あとは緩やかに死んでいくだけの今は違う。ゆえに彼は現実的・論理的な判断として、石仮面の力で吸血鬼になる道を選び、同行者のスピードワゴンたちを殺害する。
さらに彼は、スピードワゴンの身内でありジョジョ2部の主人公であるジョセフ・ジョースターが、波紋の才能を磨いて敵討ちにくるであろうことを見越し、その前に先手を打ってジョセフを襲撃する。
こうして始まったジョセフとの戦いでも、ストレイツォの「容赦しない」性格に当然変わりはなく、弱い波紋しか使えないジョセフを全力で殺そうとする。しかしそこはジョセフもさる者で、現実的に自分の弱い波紋だけでは吸血鬼を倒せないと見たジョセフは、マシンガンや大量の手榴弾を準備しておき、容赦なくストレイツォを解体しようとする。
ちなみにストレイツォが戦いの開始前、ジョセフに対して目から発射する液弾「空裂眼刺驚(スペースリパー・スティンギーアイズ)」で射程内から不意打ちしなかったのは、一見友人とバカ話しているだけのジョセフに、その実まったく隙が無かったからであろう。
そしてストレイツォはジョセフとの戦いの中で、ジョセフの合理的な戦いぶりに自分と似たものを感じる。そこでストレイツォは、ジョセフが「自分の側」か「かつてのジョナサンの側」かを試すために、通りすがりの女性を人質に取り、さらに地の利を完全に取った上で、「女性を見殺しにすればもうお前を殺そうとはしない」「しかし女性を助けに来れば全力で殺す」という取り引きを持ちかける。
もしジョセフが自分と同じ側の人間であるなら、見知らぬ女性のために死地に飛び込むような愚行は冒さないだろう。そしてそうであればジョセフは、すでに死んだスピードワゴンの復讐にこだわる不毛さや、この先見知らぬ他人が食料にされようがそれを止める義理はないことを理解して、今後互いに不干渉を貫くという和解が可能だろう。
だがもしジョセフがかつてのジョナサンと同じ側の人間であるなら、過剰な正義感で見知らぬ女性であろうと助ける危険を冒すだろう。そうであればジョセフは吸血鬼となった自分をどこまでも追うであろうし、ゆえに今この場で絶対に殺さねばならない。
しかしてジョセフは女性を助ける道を選び、ストレイツォは死地に飛び込んだジョセフに100%確実なとどめを刺しにかかる。しかしジョセフは絶体絶命の危険を策で難なく切り抜け、ストレイツォの頭部に波紋を喰らわせる。そしてストレイツォは自分の計算が完全に崩れたこの瞬間に、この世に計算を超えた「運命」という力が疑いようもなく存在することを理解する。
ところでこのストレイツォとジョセフの戦いは、「運命を操るもの」がお膳立てしたわけではない。この戦いがなくともジョセフが柱の男たちと戦う運命であることに変わりはない。またこの戦いはジョセフにとって、柱の男サンタナとの模擬戦程度には役に立ったが、それも特に必須ではない。
ジョジョ2部の物語はジョセフたち「人類」と「柱の男」の戦いであり、そこに吸血鬼の出る幕はない(柱の男の食料や家来以外には)。ストレイツォが吸血鬼になってジョセフを襲う展開は、「運命を操るもの」にとって想定外の事態であり、例えるなら劇の舞台で端役が脚本にない行動をとって起こしたトラブルに近い。
このようにストレイツォの人生は結局のところ最後まで、「運命を操るもの」に選ばれスポットライトを当てられることはなかった。しかし彼は彼自身の生き方によって物語に割り込み、まるでメインキャラクターのように傍若無人に振る舞い、戦いにおいてはニューヨークの街中を全裸で跳び回り、戦いに敗れてはついさっきまで信じていなかった「運命」について上から目線でジョセフに説法し、最後は波紋の呼吸で吸血鬼の肉体からディスコライトのように光を放って消滅する。
運命に導かれなかったストレイツォは、それゆえにジョジョに登場する他の誰よりも自由に生き、その上で自分が生きた証を物語に刻み込んだのである。
ところで話は変わるが、ストレイツォというキャラクターは作品外の世界で、JC5巻の巻末に載せられた読者からのファンレターによって殊に有名である。
そのファンレターを選んだのが作者の荒木飛呂彦氏か、あるいは当時の担当編集者あたりかはわからない。ただどちらにせよ、そのファンレターが何10年も語られるほどの代物になったのは、誰にも予測できない想定外の事態である。
前述したとおりストレイツォは、作品内の世界で運命の力から自由だった。しかしそれも結局は、彼をそのように設定した「作者の手のひらの上」の出来事でしかない。
そんなストレイツォを、作品外の世界で作者の手さえ越えて有名にした件のファンレターは、もしかするとストレイツォというキャラクターを完成させる最後の1ピースであり、彼の死に対する最大の手向けといえるのかもしれない。