魂を「立たせる」スタンドと「鎮める」レクイエム
ジョジョの奇妙な冒険第3部から登場する「スタンド」とは、物理法則を超えた現象を起こせるいわゆる「超能力」である。そしてこの超能力に目覚めた人間(や動物)は「スタンド使い」と呼ばれる。
そして個人の精神的な「器」を上限とするスタンドの力は、3部から8部までパワーのインフレを起こすことなく、能力の傾向だけを変えながら存在し続けている。
しかしジョジョ作中にはごく稀にだが、個人の器の限界を超えた超能力が登場する。その1つがジョジョ5部「黄金の風」の終盤にのみ登場する、「レクイエム(鎮魂歌)」と呼ばれる力である。
レクイエムはスタンド使いが出現させたスタンドを、特殊な「矢」で貫くことで発現する。この発現方法の意味は、「集合無意識への穴」を開けることにある。
スタンドは「個人の精神」の力が物質世界に現れたものである。そしてスタンドは、個人の精神のさらに奥深くの領域、地球上の全生物に共通する「集合無意識」へのつながりを持っている。そこへの穴を「矢」で開けることで、レクイエムは発現するのである。
なおジョジョの世界には「矢」は全部で6本あるが、スタンドからレクイエムを引き出せるのはその内の1本だけである。この「レクイエムの矢」は他の5本とはデザインが異なり、独特な形状のパーツが付いている。
集合無意識から引き出されたレクイエムのエネルギーは、スタンドとは全く異なる。スタンドが個々人の「個性」から発揮されるエネルギーであるのに対し、レクイエムはそれとは真逆の、地球上の全生物の精神を混ぜ合わせて「均質化」したエネルギーである。また集合無意識のエネルギーは、個々人の精神とは比較にならないくらい巨大である。
ところで「スタンド」という呼び名は、ジョジョ3部でジョセフ・ジョースターが説明したとおり、「そばに立つもの」という意味から名付けられている。スタンドは個々人の霊的な個性が物質世界に「力強く確立する」ことで発揮されるものであり、この呼び名は的を射ている。
一方で「レクイエム」という呼び名は、ジョジョ5部でJ・P・ポルナレフが、「全ての生物の精神を支配する力」という意味で名付けている。強大な集合無意識の力は個々の生物が持つ魂の力を圧倒し、強制的に眠らせたりできる。このような力が「魂を鎮める歌」と呼ばれるのもまた的を射ている。
レクイエムはスタンドから引き出されるという点ではスタンドの一種といえる。だがエネルギーの性質が真逆であることや、双方の命名理由からすれば、スタンドとは明確に区別されるべきともいえる。
そしてまたレクイエムは、軽々しく使うべきではない「禁断の力」でもある。その理由はレクイエムが「生命の営みの価値」を否定するものだからである。
我々が生きるこの世界では、無数の人間がさまざまな可能性を試み、失敗と成功を繰り返しながら「先」へと進んでいく。このように個々人が個性を引き立たせながら行動する過程こそが生命の価値であり、ジョジョの物語が示す「人間賛歌」である。
しかしレクイエムはその価値を無に帰してしまう。作中で最初に発動した「チャリオッツ・レクイエム」は、周囲の全生物の肉体と精神を均質化したものへと変化させる能力を持つ。それは作中でも言われていたとおり、「45億年かけて創られてきたこの世界の生き物の歴史」を崩壊させるものである。
その次に発動した「ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム」も、別の形で生命の営みを否定する。こちらのレクイエムは、集合無意識に「生命の歴史の経験則」として宿っている「正しい方向へと進化する力」によって、生命が遠い未来に辿り着くであろう「進化した存在」を、かりそめにこの世に呼び覚ます。それはジョジョの物語で繰り返し戒められている「過程を飛ばして結果だけを得る」行いである。
作中ではこの反則的な能力は、この能力を目覚めさせるための「過程」である、ブチャラティチームが歩んだ苦難の道と、アバッキオ、ナランチャ、ブチャラティの犠牲によって埋め合わされ、正当化されている。だがそれでもやはり、この能力自体は正当なものではない。
ゴールド・E・レクイエムは5部のラスボスであるディアボロの無敵のスタンド、「時間を消し飛ばして結果だけを得る」キング・クリムゾンを倒すために使われた。それはつまり、人が及ばぬ強大な邪悪に禁断の力で対抗する、「毒をもって毒を制す」行為なのである。